唯一無二の型染め、小刀の揺らぎが生む温かな「銀座のつばめ」
毎年、松屋銀座の軒先にはツバメが飛来し、巣を作ります。私たち松屋銀座が確認しているだけでも、1992年から30年以上続くこの光景は、もはや銀座の風物詩として社員にも長く親しまれてきました。
商売繁盛や幸福を呼ぶとされるツバメが、日本で最も地価の高い街に、毎年変わらず帰ってくる。当たり前になりすぎていたからこそ、改めて形にしたかった。「銀座のつばめ」は、そんな想いから生まれたデザインです。
手がけたのは、岩手県紫波町で型染めを営む小田中耕一さん。60年近く型染めと向き合ってきた職人の、デザインへの想いと制作の背景をうかがいました。

10代の頃に出会った、色鮮やかな染物
小田中染工房は、岩手県のほぼ中央に位置する紫波町にあります。紫波町は古くから水が豊富な町として知られており、農業が盛んに行われてきた豊かな土地。岩手を代表する酒造り職人「南部杜氏」発祥の地でもあり、かつての杜氏たちは冬の酒造りを終えると春から秋にかけては農業に励む、そんな暮らしが珍しくありませんでした。
農作業をする際、人々が頼りにしたのが藍染めの野良着。藍には防虫や抗菌などの機能があり、農作業に最適な染物として広く普及していたそうです。昭和初期に創業した小田中染工房も、当初はそうした需要を支える生業としてスタートしています。

時代の移り変わりとともに藍染の需要が減ったことから、小田中染工房は、のれんや手ぬぐいなどに用いられる「型染め」や「印染め」へと転向。1950年に誕生した小田中耕一さんは、先々代である祖父や先代の父の背中を見て育ち、幼少の頃から「自分が跡を継ぐのだろう」と感じていたといいます。工業高校の工芸科で学び、卒業が目前に迫った頃、知人から紹介されたのが、1956年に人間国宝として認定された染色工芸家、芹沢銈介氏でした。
「芹沢先生を紹介してくれた人が『自選芹沢銈介作品集』を見せてくれて、同じ染物でもこれほど色鮮やかに、自由に作れるものなのかと衝撃を受けました。染物で独創性のあるものが作れるという可能性を発見したような思いでした」
弟子入りするため上京した小田中さんは、それから約9年という月日を有限会社芹沢染紙研究所で過ごしました。弟子入りとはいえ、芹沢氏から手取り足取り教わったわけではありません。朝は掃除、昼はお使いといった用事をこなす傍ら、芹沢氏の技術を間近で見て自分の糧としたのです。
やがて、父の体調不良がきっかけで故郷へ戻る決意をした小田中さん。帰郷が決まった際、芹沢氏から「もう少しここにいたらどうか」と引き止められたことを、当時の情景を愛おしむように語ります。偉大な師との記憶が、今も小田中さんのものづくりの原点にあり続けているのです。

小刀の揺らぎが生む、唯一無二の型染め
民芸の世界で広く知られる存在となった小田中さんのもとには、のれんや手ぬぐい、お菓子のパッケージなど、さまざまな依頼が舞い込んでいました。
「いつか小田中さんと仕事をしたい。」
そう温めていた私たち松屋銀座が「銀座のつばめ」の図案制作をお願いしたのは、2025年のこと。「本当に私でいいのかな、と思いました」と小田中さんは静かに振り返ります。「それでも、私の作風を気に入ってくださったとのことだったので、それなら、と」。

「銀座のつばめ」の図案制作ではつばめをメインに検討していましたが、「銀座といえば柳があるな」という思いから柳を描いたり「ここに空間があるから水や雲を置こう」と考えたりなど、プロジェクトを進める中でアイデアが膨らんでいったそう。その膨らんだアイデアを描き起こして、愛らしくもどこか懐かしさを感じさせる図案が誕生しました。

実際の制作作業では、図案が決まったら下絵用紙に描き写してロウ引きをし、その面を渋紙へ貼り付け、下絵の上から小刀で型を彫り進めます。この彫る作業が最も神経を使うそうで、小田中さんは区切りの良いところまで一気に彫り進めていきます。

「休み休みやるとアイデアが途切れてしまうため、手を止めずに済むよう、あらかじめ研いだ小刀を幾本か用意しておきます」と、実演しながら解説する小田中さん。その手は滑らかに動き、一切の迷いが見えません。ときには下絵の線からずれてしまうこともありますが、それもまた一つの味になるのだそう。「下絵をなぞれば良いものができるというわけではありません。どちらかというと、小刀で再び描いていく感覚に近いです」

そうして彫り上げた渋紙の型に、今度は「紗(しゃ)」と呼ばれる細かい網目状の布を貼り付けます。それを染紙に乗せ、上から餅粉と糠、塩、水、石灰を混ぜた自作の防染糊を塗って「糊置き」が終了。型をはがすと糊の部分が白く残り、そこへ赤や青、黄色など「色差し」と呼ばれる着色作業を行います。


実はこの色差しは、師匠である芹沢銈介氏の影響を色濃く受け継いだもの。かつて芹沢氏は、沖縄の伝統工芸「紅型(びんがた)」に衝撃を受け、色鮮やかな作品を数多く手掛けました。小田中さんは「紅型で用いる色は、必ずしも自然界と同じわけではありません。極端なことを言ってしまえば、赤い雪があってもいい。それくらい自由ですし、絵だけでなく色でも面白さを追求できるものだと思います」と語ります。

色差しを終えたら乾くまで待ち、その後、水に浸して柔らかくなった糊を竹で作った刷毛で優しくこするようにして糊を落とします。それを板などに貼り付けておき、完全に乾いたらようやく完成です。使用した型紙は糊を落として手入れをしておけば、半永久的に使えるのだそう。しかし、最近は渋紙や紗など型染めに使用する素材が減っており、小田中さんは「新しい素材にも挑戦しながら、求められる限りこの手で彫り続けたい」と、穏やかな笑みを浮かべて教えてくれました。

威張らず、主張しない、空気のような存在を

近年では印刷技術の向上やAIの活用により、自らの経験と手の感覚を駆使して型染めを行う人が少なくなっています。小田中さんはそうした時代の流れに対し「少し進みすぎちゃったかな」とつぶやきます。「AIを必要とする人や分野は確かにあると思います。でも、工芸だけはそうした最先端の技術に頼ってほしくない。私自身が機械に頼りたくないし、機械には負けたくないという思いでやっています」
小田中さんの作品には、鮮やかさと温もりにあふれ、見る人の心を和ませてくれる不思議な魅力があります。型を彫る際の微細な揺らぎさえも味に変えられるのは、60年近く磨き続けてきた技あればこそ。それは、人の手でしか生み出せない美しさなのかもしれません。

小田中さんが生み出した「銀座のつばめ」は、鋳物や染物、菓子箱など、さまざまな商品に温もりを添えています。「まさかこんなに幅広く使っていただけると思っていなかったので驚きました」と笑います。
かつて芹沢氏は、小田中さんに「のれんは立ち止まって鑑賞するものじゃない。人がくぐったり空間を仕切ったりするものだ」と語ったのだそう。その言葉が今も小田中さんの仕事の根底に流れています。工芸品とは決して威張らず、主張せず、日々の暮らしの中で「気持ちがいい」と感じられる「空気のような存在」であってほしい。それが、小田中さんが長年のものづくりを通じて辿り着いた哲学です。
「銀座のつばめ」の図案を手がけた時も、その思いは変わりませんでした。柳の下を軽やかに舞うつばめ。銀座という街の品格を纏いながら、しかし決して主張しすぎない。そんな図案を目指して、夜な夜な紙と向き合い続けました。「見て気持ちのいいもの、目障りにもならないけれど、なんか気持ちいいですよね、というくらいの感じで手に取っていただいて。そしてどこかに置いておきたいな、と軽く思っていただけたら」。
工芸品への哲学として語られたその言葉は、「銀座のつばめ」という図案そのものへの思いとも重なって聞こえました。


